MBTIとフォーカシングの(自分にとっての)関連性

先週土曜日、フォーカシング関連の勉強会に参加したのち、参加者の一人Sさんと食事をした。いろいろと話をしたが、その中に勉強会のテーマにも関連して、MBTI(タイプ論)とフォーカシングについての持論を述べる機会があった。


その時、しゃべっていて「おぉ、なるほど、そういうことか・・・」と自分でもびっくりするようなことが起きた。そこでボクが彼に言ったことは次のようなことであった


「MBTIは、誤解を恐れずに言えば、自分の認知を変える、いわば、自分の非合理的思い込みを合理的なものに変える枠組みであり、合理的な認知を獲得することよって自分の認知の歪みが修正されれ、結果自己肯定感が生まれ、行動変容へのモチベーションが起きる・・・」


ボクは彼に次のような話をした。あるとき、Sを指向するのは自分一人で他の5名はすべてNを指向するというメンバー計6名の勉強会に参加した。その場では、テーマに関する関連性、可能性、イメージ、将来指向性などが縦横無人に話され、それ自体はとてもおもしろいものであったが、ボクにはなんとなく現実離れした感じがし話題についていけず、若干の疎外感も感じていた。極端にいえば、自分の考えていることがすべてつまらなく感じ、あぁ、自分はなんとつまらない奴だろう・・・と思うような気持である。


通常ならば大変苦痛を伴う場ではあっただろう。しかし、タイプ論のおかげで、以下のような認識を持ちながら、その場を自分にとっての価値ある場・時間として乗り切ることができた。


「なるほど、自分と逆のタイプの人が集まるとこんな感じで話を進めるんだ。だからまぁ、これは真逆の自分にとっては訓練の場だな・・・」若干の疎外感は感じたとはいえ、落ち込むことなく逃げることなく、自分の番が来たら自分の主機能を発揮して貢献しようと、ポジティブな気持ちも持ちながらその場に参加していたのである。


つまり「世界はすべてSだ」というこれまでの自分の非合理的な認知を、MBTIの学習を通してその歪みの修正ができ、Nもまた真であるという合理的な認知を持つに至ったということである。


こんなことを話したとき、あぁ、これが自分にとってのMBTIの価値なんだ・・・とスト〜んと落ちた気がしたのである。


で、フォーカシング!


心理学的に言うと、MBTIは精神力動理論に属し、フォーカシングは人間性心理学におけるPersonn Centered Approach(PCA)の一つである。だから、ある意味別もので、それぞれの専門家が、それぞれに研究・応用を進めているものである。だから、一言でいえば・・・違う!


先の1対5の勉強会でボクが感じた疎外感、劣等感・・・これをフォーカシング的に扱うとどうなるか!?


「あぁ・・・うぅ〜ん・・・ボクの中に、こぉ、なんとなく、疎外された、ちょっとさびしく、悔しくもあり、いらだちもあり、あぁ、自分って小さくてダメな人間だなぁ・・・と感じている“何か”がある。それは、ちょっと胸の辺りがこわばって、呼吸が浅くなっている感じなのかなぁ・・・」


「その何かに、“キミがそこにいるのは知ってるよ・・・そこに居てもいいんだよ・・・」とやさしく声をかけてみよう・・・


それを、フェルト・センスという。ボクの中にある“何か:フェルト・センス”にスペース=居場所を与えてあげると、それが、たとえばの言い方をすれば、緩んでくる。そして、その場でボクが感じていた、疎外感、緊張感、矮小感が、じわーっと変化していく。その場に「居る」ことの意味が、自分の中に湧いてくる。そして、その場にそのように居る自分を肯定していく・・・


うまくは言えないが、こんなふうに、タイプとフォーカシングが、自分の中にうまぁ〜く出てくる・・・全く都合のいい話ではあるけれど。


学問的には、心理学の理論やセラピーの流派はあるのだろうが、ボクの中では矛盾なく同居している、頼もしいリソースたちなのである。


自分にとってのMBTIやフォーカシングの意味・価値に改めて気づいた勉強会とSさんとの会話であった。!