家族の意味

昨年の12月に、ブライス家の人びと(家族療法)を読んだ感想を書いた。それは、家族システムが内包する様々な病理に触れ、ひるがえって現実の自分との共通性を感じ、そこにショックを受けたということであった。


そして、自分にとってあるいは、日本人にとって、もはや家族という形態は社会的意味を成さないのではないか・・・という、ある意味絶望的ともいえる気持ちになった、しかし、何かの意味があるはずで、それが課題だろうということであった。


それから、約一年たった。


サニー・ハンセン(ILP)、嗜癖する社会(A.W.シェフ)、コミュニティ・アプローチ(高畠)、統合的アプローチ(平木)などを知るにつけ、ある一つのアイデアが浮かんできた。


コミュニティ心理学の重要な概念である「ブロンフェンブレナーの人間発達生態学モデル」を見たとき、オォ、これはすごいと思った。そこに、家族システムの位置づけが明確に示されていたからだ。


個人を取り巻くのが、ミクロシステム、それをメゾシステムが取り巻き、さらにエクソシステムに包含され、マクロシステムに至る。マクロシステムとは、文化・社会・政府・企業・信念体系などである。(ちなみにマクロよりもっと大きいのは、おそらくプラネットやコスモスだろう。サニー・ハンセンはそう書いている。)


そこで、家族はというと、個人を取り巻くミクロシステムの一つとして位置づけされている。


わたしたちが生きる目的、意味は何か?いろいろあると思うが、個人が社会が幸せになることがきっとあるに違いない。(もっと風呂敷を広げれば、水と緑のプラネットを守り保全することにつながり、コスモスの安定と平和につながっていくのだろう。)


マクロシステムにおける幸福を実現するためには、エクソシステム、メゾシステム、ミクロシステム、個人システムの幸福が実現されなければならない。要は、システムがシステムを内包し、お互いに影響し合い連鎖しているのだ。


ミクロシステムに内包される家族システムは、それを包むメゾシステムの幸福を実現するために、重要な役割を果たす。


つまり、なかなか説明はむずかしいのだが、家族が持つ道具的あるいは情緒的役割を越えて、もっと大きな全体システムを考える必要があるのだろう。家族という形態は、必要重要なサブシステムであり、その幸福を抜きにして、上位システムの幸福はあり得ない、ということになると思うのだ。


サニー・ハンセンがいうように、夫婦とか稼ぐ/育てるという、いわば主従関係ではなく、パートナーとして人間として、それぞれの役割を時と場合によって話し合いながらシェアし変化させるそんな関係ができたとき、上位システムへ繋がるミクロシステムができ上がるのだろう・・・と思った。


そういう意味で、家族・・・けっこう重要かもしれない。