地震から9日

地震から9日たった。


この一週間は普段よりは静かに生活していた。


とはいえ、直接被災していないにも関わらず、何となく心身の微妙な緊張を感じる一週間だった。大げさにいえば、何だか、夢の中を漂っているような感じ・・・とでも表現すればいいのだろうか。


日本が3月11日午後14時26分を境に一瞬にして変わってしまった。


地震の当日、広尾のオフィスから30kmを歩いて帰ったが、そのときのことを思い出した。


揺れているときは冷静だった。火のもと、電気、物の散乱を確認し、隠れるところを探しつつ「あっ、でもここマンションの4階だから、建物が崩れたらもうどうしようもないな・・・」などの想いがめぐった。


いろいろな所に電話をしたらつながらないので、おそらく電車もダメだろうと思い、そのときに歩いて帰ろうと決めた。


帰りの経路と距離、だいたいの時間の目安を確認した。30kmは未経験だったが、日ごろからよく歩いているのでだいじょうぶ、歩けると思った。それに、練習にもなるし・・・などとも思った。


これまでの経験から、これくらいの距離と時間、それと外気と体調から、水は不要と思った。お腹の減り具合から、食べ物も不要。また、どれくらい歩けば、からだのどこがどのように疲れ痛くなりそうか、経験上知っていた。


トイレをすませ、4時10分頃、広尾1丁目の明治通り沿いのオフィスを出た。


7kgのバッグを背負っていたが、首を楽にし頭を前へ上へ、重さを脊椎で受けて骨盤で支え、胸の厚みを感じながら足を運んだ。アレクサンダー・テクニークとパノラマ視覚によって、からだを正しく使い、足、膝、股関節への負担が最少になるような歩き方である。


渋谷が4時半頃、新宿が5時過ぎ、池袋が6時過ぎ。明るかったせいもあって、みんな整然と歩いていた。あとで報道されたような殺気立った感じはなかった。渋谷はまったく普段の渋谷だった。


原宿から代々木にかけて人通りが増え、歩きづらくなった。でも、まだコンビニ等に人が溢れている感じはなかった。


新宿を過ぎるころから、池袋に向かって歩く人が増え、日も落ちて薄暗くなり始めた。でも、まぁ、統制は取れていた。ボクはけっこう歩くのが早い方だったので、歩道は逆に歩きづらく、車道の路肩を歩いた。車は渋滞していたので、意外と安全。


中に自転車に乗ったり引いている人がいた。邪魔だと思った。


池袋到着時には日は完全に落ちていた。街灯は明るく点灯されていた。西口の西武の前を通り抜け、六つ又陸橋をくぐって、川越街道(254)に出た。上手い具合に小さな公園にトイレを見つけ、用を足した。ラッキーだった。


川越街道をひたすら北に歩いた。歩く人は多かったが、混雑はしていなかった。夕方7時くらい。会社から出された人たちらしいグループ連れが多かった。けっこう、楽しそうに話しながら歩いていた。


セブン・イレブンがあったので、エネルギー補給と思いチョコレートを買った。nanaco支払い。店内は平静であった。品物もそれなりにあったと記憶している。トイレ待ちの人はいなかった。


途中、家にメールで、山口の実家に電話が一回通じた。携帯メールはよくつながった。


埼玉県和光市に入ったら、歩道が狭くなった。しかも道路側に傾斜している。意外と歩きづらく、一回つまづきねんざしそうになった。瓦礫だったらさぞかし大変だろうな・・・と思った。


朝霞市に入ると、裏道を知っているので、そこを通った。幹線道路が車であふれかえっているのに対し、朝霞のローカル道路はほとんど車がいなかった。


10時前にうちに到着した。予想していた股関節の疲れと痛みもそれほどなく、何だかあっという間の30km、5時間半のような気がした。


アドレナリン、火事場の馬鹿力なのかもしれないなぁ・・・と今、そう思う。


災害緊急時にいわれる行動規範からすれば、建物を出て一人で長距離を歩く行動は疑問符が付き無謀といわれるかもしれない。でも、けっこういい判断ができたな、と思う。パッと判断してパッと動いた。自分の直感もまんざら捨てたものではない。


さて、これから。


おそらく何かのお役に立てる機会が必ずくると思う。そのときに備えて、からだと気持ちを整えておこうと思う。