共感的理解、BEG、フォーカシング、そして内向感覚

PCA乗鞍2011から昨日戻り、今日は事務所に出かけたのだが、電車の中で自分のコミュニケーションスタイルの“あること”に気づいた!


いつのBEGもそうだったのだが、ボクの発言は自分の内面的な話し(フェルトセンスの言語化)が大半で、残りが他者の発言に対する“Iメッセージ”によるフィードバックであった。


一方、他者の発言や態度(表情、視線、相槌・うなづき)に対する“質問”はまったくといっていいほどしていない。その理由は自分では分かっているつもり・・・であるが・・・


カウンセリングにおける質問は、その人を理解するためにするものであるが、ボクには、それはカウンセリング関係の中で行うことだ・・・という思い込みがある。だから、グループの一人の発言者に対しボクが質問を発するということは、ボクにとってはあたかもその発言者とボクがカウンセリング関係になった・・・ということで、その結果グループの中にone on oneの関係をつくってしまう・・・と思ってしまう。


これに抵抗がある。


何となく特別の2人になったようで、目立ってしまうのではないかという緊張感。他のメンバーの発言時間を押しのけ、場の時間を自分のために独占してしまうのではないか・・・という罪悪感とまでは行かないけれども、何となく申しわけない気持ち。その時におけるその人の状態状況を一手に引き受け、しかも延々と責任をもたなければならないだろう・・・という思い込みとそれに付随する重圧感、あるいは強迫観念。


そんなこんなで、結果として質問はしないボクになっている。あっそうそう、質問という行為がもつある種の対決的ニュアンスに対する、あまりに慎重な姿勢・・・もあるなぁ・・・


ところで、JCCの「内的キャリアと積極的傾聴」の中に「きき方の実験」というのがあり、そこに「理解する聴き方」というのが出てくる。その聴き方はいわゆる「共感的理解」につながるもので、その本質は「相手を理解するための質問をすることにある」と「きき方の実験」は説く。


一概にそう言い切ってしまうのは正しくはないとは思うが、しかし大胆にいえば、質問のない聴き方は、「共感的理解」のかなりの部分を抜かして聴いているようなものだということになるだろう。


そこで、BEGにおけるボクの態度である。ほとんど質問的発言をしないボクは、他者から見ると・・・もしかしたらあまり共感的態度を表出してはいないように見えるのではないだろうか?


EQのようなアセスメントを受けると、いつも共感的態度の点数が低く、要改善項目に入っていた。それで、自分は共感的理解・態度が苦手なんだ・・・とずっと思っていた。そのアセスメント結果は、そんなことを感じている自分が、素直に出たもの・・・なのだろう。自分はほんとうに共感的理解ができない人間だろうか?


そんなことはない・・・と思う。one on one のカウンセリング場面では、かなり「理解する聴き方」を試みているし、また、できると思っている。つまり、「共感的理解・態度」を表出しようとしている。たまには、そのような態度に対するフィードバックをクライエントからもらったりもする。


これはどういうことか?「場」の違いではなかろうか?「one on one」と「多数:グループ」の違いである。1対1だと表出できるが、多数のときは、内側に閉じ込めてしまう。


つまり、「共感的理解」の能力の有無/高低ではなく、場の違いで表出するかしないか、できるかできないかの問題なのだ!自分にその能力はあっても、「場」によっては、発揮できなくなってしまうということなのだ。


わかってしまえば他愛もないことかもしれない。しかし、今回のBEGで初めてこのことに気づいたのである。


・・・で、気づいてしまったら、もう知らない、できないとはいわせない。これからは、グループの中で、one on oneでの質問を、少しでもいいから挑戦してみようと思う。


こんなことに気づかせてくれたPCA乗鞍2011だった。やっぱりBEGはおもしろい。


ちなみに、こういう自分の特徴は、ボクの主機能である「内向感覚」が大いに影響しているのだろうな〜(笑。)


BEG、積極的傾聴、フォーカシング、MBTI・・・つなげて考えるといろいろなことが見えてくる。