Natalieとみすゞさん6−故郷−

ついに見つけた!

Natalieの本に、確かHemingwayの言葉が出ていたはずだ…と記憶していたものの、その箇所がなかなか見つけられない。どこに書いてあったんだろう…覚えているキーワードは、MichiganとParis、その2つであった。


その箇所、大雑把に言うと、HemingwayがParisにいて故郷のMichiganのことを文章に書いたということである。Natalieがこれを引用した意図は、つまり、Hemingwayの心のなかに蓄積されたあらゆる記憶(それを仮に、宣言的記憶エピソード記憶、情動記憶、手続き記憶としておこう)が、Parisにいてもちゃんと蘇り、詳細に故郷Michiganを描くことができたというものであった。


これを最初に読んだとき、みすゞさんを思い出した。みすゞさんの詩のベースになっているのは仙崎での日々の生活である。「みすゞと雅輔」によれば、みすゞさんが詩を書いたのは下関だから、下関に居て仙崎のことを詩に詠ったことになる。Hemingwayと似ていないか!?Natalieが言っていることそのままじゃない!?Hemingwayを引用したNatalieに感服した。人間のこころの働きを垣間見た。


Natalie本の"Composting"という見出しの章にそれが出ている。それは、その人が体験するありとあらゆる出来事をコンポストの中に入れてその中で熟成させ、そして肥沃なライティング材料に変え、ライティングを通してその人自身(セルフ、内側)から湧き出てくる言葉として姿形を変えていく,というニュアンスである。まるで、下関にいて故郷の仙崎をモチーフとした詩を書いたみすゞさんではないか!


Natalieのそのくだりがどこに書いてあったのかわからくなったのだ。何度も見直しても見当たらず、別な本かな?とも思ったりしたが、通読3回目にその"Composting"に差し掛かったとき、見つけた!


その文章は、"Hemingway wrote about Michigan while sitting in a cafe in Paris. 'Maybe away from Paris I could write about Paris as in Paris I could write about Michigan. I did not know it was too early for that because I did not know Paris well enough.'"というものであった。


素直に訳してみると、「ヘミングウェイは、パリのカフェに居ながらミシガンについて書いた。『まるで私がパリに居てミシガンのことを書けるように、たとえパリを離れたとしても、私はパリについて書けると思った。でも、それは早すぎるということを私は知らなかった。何故なら私はパリのことを十分に知らなかったからだ。』」となる。


しかし、Hemingwayの文章の前後の文脈が不明だし、英語訳もたいしたことないせいか、どうもイマイチ、ストンと腹に落ちる感じがしなかった。だから、このブログにもこのことを書かなかった。みすゞさんの仙崎を書きたかったが、片方のHemingwayがストンとこない。それじゃ、書けない、伝わらない。そのことが、ずっと気になって僕の潜在意識下に残っていた(Natalieの別の章を参照すれば、それは、"Obsession"である。)


NatalieのHemingwayは、彼の作品"A Moveable Feast"からの引用だ。「移動祝祭日」という。そのことを、昨日の電車で何とはなしに思い出し、時間もあることだから帰りに本屋に寄ってみよう、とふと思った。新潮文庫である。そして、志木駅旭屋書店に入り新潮文庫の海外文学、ヘミングウェイを見たら、あった!「移動祝祭日」だ!


ヘミングウェイはたくさんの小説を書いているが、きのう置いてあった作品は3つ。その1つが[移動祝祭日」、何たる幸運!ちなみに、この小説、昨年のパリの連続テロ事件ご、フランスでベストセラーになったそうだ。


早速、Natalieの引用箇所を探した。「サン・ミシェル広場の気持ちのいいカフェ」の中に、その1文は含まれていた。プロはなんと翻訳しているのだろう?


「ちょうどパリにいて故郷のミシガンのことを書けるように、パリを離れてもパリのことを書けるだろう、と私は思った。パリにはまだ精通していないのだから、それはまだ時期尚早だということが、わかっていなかったのである(ヘミングウェイ著、高見浩訳「移動祝祭日」新潮文庫、2009年)」さすがプロ、やっぱ訳し方違うな〜〜〜完敗(笑い。)


しかし、なのだ、これで、Natalie、Hemingway、みすゞさんを巡るモヤモヤは完全に解消した。後は、「移動祝祭日」を読むだけだ!

仮面ライダーアマゾンズ

先週、仮面ライダーアマゾンズシーズン1を一気にみてしまったのだが、いやあ、なかなか!面白かった。お陰でシーズン2も見始めて、こちらは毎週金曜日配信なので、1週間毎、待ち遠しいなあ(笑い。)


そのシーズン1、Episode 5 Eyes in the Darkを見ていたとき、あれ?この風景どこかで見たことある!というシーンが出てきた。ちょうど、6:00~7:49の辺り。仮面ライダーの悠が駆除体との(一時的な)決別を決意し、駆除体隊長の志藤と対峙している場面である。


あのロケーション、埼玉県朝霞市黒目川に架かる「浜崎黒目川橋」。橋の正面には「朝霞市斎場」が見える。川の下流から橋を見ると、少し遠くに東武東上線が黒目川に架かる高架の上を走っている。悠の仮面ライダーは志藤と別れた後、黒目川の土手をバイクで走り去る。


あそこ、僕がよく散歩するところだよ!!こんなところで、あの場所に出会うとは!夢にも思わなかった…馴染みの場所が出てくると、嬉しいもんだな!


いずれにしても、仮面ライダーアマゾンズは面白い(笑い。)

大羽いわし

みすゞさんの「大漁」は、矢崎節夫氏のエピソードで有名な詩だ。そこに登場するのが大羽鰮。


僕たちはイワシというと、単にイワシで、思い浮かぶのはイワシの缶詰、イワシのオイル漬け、サーディーンという横文字とか、まあ、貧困な発想だな(笑い。)


一昨日、仕事帰りに恵比寿駅近くの炭火焼き干物屋、越後屋喜八郎、に寄った。メニューを見て、「おぉっ」と感激。「大羽いわし」があるではないか!


残念ながら今回は注文しなかったが、次回行ったときには「大羽いわし」を頼んでみよう!

Natalieとみすゞさん5 −名前−

Natalieの"Be Specific"は万物につけられる名前の話だ。そこに以下のような一節があった(ちょっと気取って訳を若干いじっている。)


「約10年前のこと、私は、身近な植物や花の名前を覚えたいと思った。図鑑を買って、葉、 樹皮、種を観て、本に出ている説明と合わせながらボルダー(Boulder)の並木道を歩いた。楓、ニレ、オーク、ニセアカシア。そこで働く人たちにしゃべりかけ、通りに咲く花々、立っている樹木の名前を聞いてみた。でも、驚いた。ほとんどの人は、自分が生活しているほんの一区画に生きている植物の名前を知らないんだから。
 名前を知ることは、私をもっと大地に引き寄せること。心の中の霞を取り払い、私を大地と結びつける。通りを歩き「ハナミズキ」「レンギョウ」を見つけたら、私はもっとその場に優しくなれる。私は、周りの木々花々に気がついて、それらに名前をつけられる。そして、私は、もっと目覚めていく。」


美しい文章だなあ。僕も、図鑑を買って草花・樹木の名前を知りたいと思ったことが過去何度かあった。しかし、植物図鑑で、目に飛び込んでくる植物の名前を見つけるのは難しい。専門家に聞いても、「そうそう、難しいよね」という返事が返ってきた。がっかり…(笑い。)


そうか…名前かあ…名前は大切だよなあ…と思いにふけっていたとき、みすゞさんの「花の名まえ」を思い出した。


全6連の詩で、第4連目に
「母さんにきいても、母さんも、
 町にいるから、知らないの。
 いつも私はさみしいの。」
とあり、6連目に
「ひろい田舎の野を駆けて、
 いろんな花の名を知って、
 みんなお友だちになれるなら。」
で終わる。


Natalieは、名前を知って、「その場に優しくなれる(原文は、I feel more friendly toward the environment)」と書いた。みすゞさんは「みんなお友だちになれるなら。」と書いた。


何か、構造が同じだよね!

taverna

Natalieの本に"taverna"という言葉が出ていた。


聞きなれない言葉だった。


辞書をひいてみたところ、「ギリシャの小さなレストラン」ということだった。で、読み方。


ギリシャ語読みで「タベルナ」!レストランで「食べるな」か!なかなか笑えますね、コレ。

Natlieとみすゞさん4

いつもながら、Natalieの言葉(本当にこんな感じで言ったり書いたりしているか…まったく自信ないけど(笑い、)なんとなくしっくりくるんで、ちょっと遊んで、話し言葉ふうに訳してみた。)


「(前略)要するに、もしいい書き手になりたかったら、3つのことが必要ってことなの。まず、たくさん読みなさい、次に十分にそして深く聴くことね、そしてたくさん書くこと。それと、考えすぎちゃダメ。ただ、言葉と音とそして色感覚の炎の中に入り込んでペンを動かし続けることね。」


「みすゞと雅輔」によると、みすゞさんは本が大好きで、いつも本を読んでいた。東京から入荷する詩の雑誌を何度も何度も読んで、何度も何度も詩を書いた。きっと仙崎の「波の音」「風の音」「鳥の声」「街の声」「鰮の声」「鯨の声」「虫の声」「雪の声」「花の声」「星の声」「…の声」を十分に深く聴いたのだろう。読んで、聴いて、そして書き続けた。そこから生まれた詩のように僕には感じるなあ…


Natalieいわく、「(前略)でも、もし何か学びたいと思ったら、その大本があるところに行くことね。17世紀の偉大な俳人松尾芭蕉はこう言ったの。『木について知りたかったら、その木のところへ行きなさい』って。つまり、もし詩について知りたいと思ったら、まず詩を読んで、詩を聴くこと。そこに含まれてるパターンや形式を自分のからだに刻み込むこと。間違っても、その詩から身を引いて、それを論理的に分析してやろうなんて気を起こしちゃダメ。からだ全体で感じるのよ。偉大な禅師、道元師は「霧雨の中を歩いたら、濡れるだろ」って言ったわ。だから、ただ聴いて、読んで、そして書く。少しずつ少しずつ、自分の言いたいことへ近づいて、自分の声を通してそれを表現できるようになるわ。)


うぅ〜ん、これなんか、僕が感じるみすゞさんとその詩そのものじゃない!?で、それじゃ、詩を聴いてみようと思ってamazon見たら「永遠に残したい日本の詩歌大全集1 金子みすゞ詩集」があって、朗読が竹下景子さんだったので、うん、これならいいや!と思って注文してしまった。



ちなみに、芭蕉の言葉はスゴイね。ガツ〜〜んと一発、頬を張られたような気分だな(笑い。)四の五の御託を並べるんじゃなく、そこに行ってこいって感じかな。まったく、その通り!


読んで、聴いて、書く…か…(narrativeの世界では、語るだね…)少しずつでも実践したいな。

narrative therapyとNatalie

先日、縁あってナラティヴ・セラピーの国重浩一さんの話を聴く機会があった。その中でおお!っと思ったこと3つ。


①David Epstonが大阪で行ったワークショップの導入で、ウィトゲンシュタインの"Language is the prison of mind." 〜言語を超えることはできない〜という言葉を引用したそうだ。


これを聞いたとき僕の中に浮かんできたのは、NatalieのSyntaxの章に書いてあった、英語と日本語の世界観の違いについて。


例えば、I see a dog、と言ったとき、英語においては、世界の中心は"I(私)”であり、"I"が"dog"に"see"という動作を作用している、言わば、”I" centricである。"I"と"dog"は別物である。一方、日本語では「私は犬を見る」というが、これを英語に直すと"I dog see"となる。


おぉぉぉ、"I"と"dog"が不可分になり、「私」が犬を見ているとき、「犬」も私を見ている。両者が対当で不可分である。われわれの生活が言葉で成り立っているという前提において、我々は言語のSyntaxに囚われている。日本人は日本語のSyntaxから逃れることはできない。Wow, Natalie!!


Michael Whiteが"Exoticise the domestic"と言ったとか?慣れ親しんだものを見知らぬ異国のものにする。これ、Natalieの、ordinary/extraordinaryで言っていることと似てるなじゃい。他に見るextraordinaryは、その人にとってはordinary、自分のordinaryは他者から見たらextraordinary。自分のordinaryを他者の目で…のようなニュアンスだったと思う。何だか似ている、Wow, Natalie!


scaffolding conversation、足場作りの対話、とDavid Epstonが言った、とか。でもでもでも、Savickasも言ってるよ、Scaffold questionsって。これが5つの質問だよ。で、そもそもこの言葉を最初に使ったは誰?ヴィゴツキー!おぉすごい!


で、よく考えてみると、Writingって、一種のナラティヴ…だよね!